目次
1.仁科芳雄デジタル記念館へようこそ 2.旧「仁科記念室」 3.仁科芳雄博士略歴 4.仁科芳雄博士の偉業 5.著作と書簡
仁科芳雄博士略歴
博士は,1890年 (明治23年) 12月6日,岡山県浅口郡新庄村浜中 (現在の里庄町) の代々庄屋で農業兼製塩業を営んでいた仁科存正の五男として生まれた。(仁科会館HP参照)
皆が認める勉強家で図画などにも多才な少年であった。旧制第六高等学校 工科 (岡山) から東京帝国大学電気工学科に進学し,電気回路で世界的な業績をあげた鳳秀太郎(与謝野晶子の兄)教授のもとで最先端技術の電気工学を習得して首席で卒業 (卒業論文:Effects of Unbalanced Single-Phase Loads on Poly-Phase Machinery & Phase Balancing)。ここで身に着けた技術者の素養が,後の大型実験装置建設の素地になっている。
東大在学中に,世界初の”原子模型” (1904年) を提唱した長岡半太郎教授の講義を聴いて,まだ黎明期にあった「原子の世界の究明」を目指す「基礎物理学」に魅かれ,1920年,「財団法人理化学研究所」(理研HP参照)
に入所した。理研は,1917年にわが国初の「純正科学たる物理学及びその応用」の研究所として設立されたばかりであった。
入所後,長岡半太郎主任研究員 (東大兼務) の勧めで,1921年,原子の”核”を発見した (1911年) Ernest Rutherford が所長を務めるイギリスの Cavendish 研究所に留学した。そこで,全く新しい「原理」による原子模型を提唱した Niels Bohr との運命の邂逅となる。デンマークのコペンハーゲンにある Bohr の研究所は「量子力学」誕生の中心地だが,そこに Bohr の招聘で移り,1923年より1928年まで,世界の若き天才たちに交じって研鑽を積み,X線分光の傑出した実験成果を挙げた。この間、1927年には、ハンブルグ大学で Wolfgang Pauli のもとで Isidor Rabi とX線吸収の理論研究を行っている。
1923年3月25日に一時的に滞在していたドイツのゲッチンゲンから N. Bohr へ送った仁科博士の手紙。
は、1923年3月25日~1949年8月26日の『N. Bohrと仁科博士の往復書簡』。(Niels Bohr Archive 所蔵)
Bohrの研究所にて
1928年にコペンハーゲンに戻った博士は理論家としての才能を開花させ,盟友の理論家 Oskar Klein とともに Paul Dirac が新たに発表した「相対論的量子力学」に基づいて,X線の電子による散乱(Compton 散乱)を説明する「Klein―仁科の公式」を導き,原子物理学者として世界に認められた。
この7年に及ぶ滞欧留学の間に,語学に堪能な国際人としての素養を磨くとともに,未解決の課題に人種や師弟にこだわらず自由闊達な議論を通じて共同で挑む「コペンハーゲン精神」(「仁科芳雄とコペンハーゲン精神」理研ホームページ
をご覧ください) を会得して理研に持ち帰った。
1928年末にアメリカを経由して帰国後,1931年からは理研で最年少の主任研究員として最も小さな「仁科研究室」を主宰することになるが,みずから主たる大学に行脚して新しい原子物理学の神髄を講義するほか,若き天才の話をじかに聴かせようと,資金を調達して Werner Heisenberg,Dirac を招聘。また,放射性同位元素のトレーサー技術を開拓した博士の師である George Hevesy も招聘。さらに1937年には念願の Bohr の招聘 も実現した。なお,仁科博士が東京帝国大学から学位を授与されたのは,1930年で,博士論文は滞欧中の研究成果をまとめた“On the L-absorption spectra of the elements from Sn(50) to W(74) and their relation to the atomic constitution”。また,1929年,親友の名和武海軍技術中将(横須賀)の妹美枝子と結婚。
京都帝国大学で講義
Hevesy招聘(Hevesy右隣:大河内所長、Hevesy夫人、仁科夫人、2列目右端:仁科)
これらの講義に魅了された俊英たちが,次々と「仁科研究室」に結集し,理研で最大級の研究室になった。(
は、「昭和18年財団法人理化学研究所案内」から抜粋した西川正治・仁科芳雄研究室の陣容です。日本の現代物理学を築いた俊英たちが綺羅星のごとく名を連ねています)このようにして素粒子,宇宙線,原子核,放射性元素などを探求する世界最高水準の研究者をわが国に育てることに力を尽くした。後にわが国初のノーベル物理学賞に輝く,湯川秀樹博士の「中間子論」,朝永振一郎博士の「量子電気力学」をはじめとする素粒子論,また巨費のかかる大型実験装置の建設による原子核,宇宙線研究の発展,放射性同位元素の医学・生物学への応用分野の開拓は仁科博士の指導と励ましに負うところが大きい。博士は,当時世界最大と称せられた人工元素変換装置「サイクロトロン」を建設したが,1945年11月,原爆開発との誤解で進駐軍によって破壊されてしまった。
原爆投下直後の1945年8月8日,日本帝国陸軍の要請を受けて「原爆かどうか」を確かめるため,広島に入った。レントゲンフィルムの感光,人骨などの放射化など仁科博士ならではの科学的証左から「原爆なり」との結論を出して,わが国の終戦に大きな契機をもたらした。博士は広島の惨状を「まるで生き地獄」と回想している。広島のあと長崎の調査も行って帰京した。放射線の生物影響を研究していた博士にとっては「命懸け」であったにちがいない。
1948年,進駐軍に財閥と見做されて解散となった理研をなんとか存続させるために(財団法人)理所を(株式会社)科学研究所という民間会社に変身させ,その初代社長として奮闘するかたわら,わが国の科学技術の再建にも尽瘁したが,不幸にして途半ばで病に倒れ,1951年1月10日に逝去された。肝臓がんであった。「働きて働きて病む秋の暮」は辞世の句となった。
博士は,1946年文化勲章を授与され,1948年日本学士院会員,1949年からは日本学術会議初代副会長, 日本ユネスコ協会連盟委員長としてわが国の科学界を牽引した。
「戦争はしてはならぬ」は博士の遺言となり,その遺志は「核兵器廃絶」として多くの門弟に引き継がれた。一方,エネルギー資源の乏しいわが国に「原子力」エネルギーの動力源への活用をいち早く訴えたのも仁科博士であった。博士は亡くなる1年ほど前に、故郷の津山中学校で講演し、その時、書を請われて「環境は人を創り、人は環境を(越)創る」と揮ごうした。

より詳しい「略歴」は、故江沢洋顧問の「解説」(仁科芳雄往復書簡集からの抜粋)
をご参照ください。

| (公開中)岡山テレビ放送制作(50分) 【仁科芳雄博士生誕130周年記念番組】「ノーベル賞の源流 仁科芳雄博士 ~科学する心を育む~」</font color> 番組には 加藤泰久里庄町長、田主裕一朗科学振興仁科財団事務局長、小林誠仁科記念財団理事長、矢野安重常務理事、櫻井博儀運営諮問委員、延與秀人助言委員(当時)が「語り部」として登場します。 |

| (公開中)岡山県制作(5分) 「郷土に輝く人々 仁科芳雄」</font color> 制作協力:財団法人仁科記念財団 仁科会館 共同通信社 岡山大学理学部 |

| (公開中)高梁川流域デジタルアーカイブ(5分) 「日本の原子物理学の父 仁科芳雄」</font color> 制作協力:仁科記念財団 科学振興仁科財団 理化学研究所 里庄町 |

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