目次
1.仁科芳雄デジタル記念館へようこそ
2.旧「仁科記念室」
3.仁科芳雄博士略歴
4.仁科芳雄博士の偉業
5.著作と書簡
仁科芳雄博士の偉業
仁科芳雄博士は、わが国の「素粒子論」「宇宙線」「元素変換」「放射線生物」研究の先駆者であり、また、これらの基礎研究に不可欠なウィルソン霧箱、サイクロトロンといった「大型の最先端実験装置」開発の先駆者でもありました。これらは、博士の後継者に受け継がれ、湯川秀樹、朝永振一郎、南部陽一郎、小林誠、益川敏英教授の素粒子論に関するノーベル物理学賞、小柴昌俊、梶田隆章教授の宇宙線観測によるノーベル物理学賞を輩出することに繋がっていきます。わが国は、いまでは世界最高性能の大型の宇宙線観測施設、加速器施設の隆盛を誇っていますが、この礎を築いたのも、仁科博士です。
は、西村純仁科記念財団顧問の「巨大科学と国際協力」宇宙科学研究所システム検討会議 (1992)です。
X線分光研究
仁科博士はニールス・ボーアの弟子のゲオルク・ヘヴェシーのもとで、まずは原子の研究には必要不可欠なエックス線分光技術の習得から始めました。そしてその最先端を習熟しただけでなく、抜群の実験センスの良さで遂には新しい元素分析法を考案して、ボーアの原子模型の確立に大きな貢献をすることになります。こうして仁科博士は実験家としてボーアらに認められることになります。
1) D. Coster, Y. Nishina und S. Werner, “Rӧntgenspectroskopie. Über die Absorptionsspektren in der L-Serie der Elemente La(57) bis Hf (72)”, ZS. f. Phys. 18 (1923) 207-211.
2) C. Coster and Y. Nishina, “On the Quantitative Chemical Analysis by Means of X-Ray Spectrum”, The Chemical News 130 (1925) 149-151.
3) Y. Nishina, “On the L-absorption Spectra of the Elements from Sn (50) to W (74) and their Relation to the Atomic Constitution”, Philosophical Magazine 49 (1925) 521-537.
4) Y, Nishina and B. B. Ray, “Relative Intensity of X-ray Lines”, Nature 117 (1926) 120-121.
5) S. Aoyama, K. Kimura und Y. Nishina, “Die Abhängigkeit der Rӧntrenabsorptionsspectren von der chemischen Bindung”, ZS. f. Phys. 44 (1927) 810-833; “Berichtigung”, ZS. f. Phys. 46 (1927).
素粒子論研究
ところが、博士の才能の開花は、それに留まりませんでした。
それが「クライン─仁科の公式」の導出です。仁科博士はオスカー・クライン博士とともに、 エックス線やガンマ線といった光子が電子によって散乱されるコンプトン散乱強度を理論的に求めるという大問題に挑戦し、この「公式」を導きました。
下に示した手書きの計算メモは散乱強度を得たところで、長いメモの原本が理研の「史料室」に保管されています。これ はその一部です。 この貴重な史料は、旧理研3号館の博士の部屋にあった段ボール箱のなかから偶然に見つかりました。ディラックが発表したばかりの方程式を用いた計算の悪戦苦闘の跡が見受けられます。(矢崎裕二著「Klein-仁科の公式導出の過程(I)-理研の仁科資料を中心に-」参照)
(矢崎裕二著「Klein-仁科の公式導出の過程(II)-理研の仁科資料を中心に-」参照)
「クライン─仁科の公式」計算メモ
仁科研究室の俊英たち
こうして、世界的な業績をあげた仁科博士は、帰朝後、完璧にマスターした量子力学をいくつかの大学に行脚して講義しました。その講義に魅了された若い俊英が、その後続々と仁科研究室に集結します。
仁科研究室の理論研究グループ名簿()には、後にわが国の理論物理学を牽引することになるほぼすべての若い研究者たちがずらりと名を連ねています。仁科博士が恩師ボーアから学んだ自由闊達な討論を通じた共同研究環境の中で、これらの錚々たる俊英たちが「日本発の素粒子論」を生み出したことを髣髴とさせます。
ここに写っているのは、仁科研究室に在籍した湯川秀樹博士(左)、朝永振一郎博士(中)、小林稔博士(右)、坂田昌一博士(後)です。坂田博士は、小林博士と益川博士の恩師です。(写真は名古屋大学理学部物理学教室坂田記念史料室 蔵)
1) O. Klein and Y. Nishina, “The Scattering of Light by Free Electrons according to Dirac’s New Relativistic Dynamics”, Nature 122 (1928) 398-399
2) Y. Nishina, “The Polarisation of Compton Scattering according to Dirac’s New Relativistic Dynamics”, Nature 122 (1928) 843.
3) Y. Nishina, “Polarisation of Compton Scattering according to Dirac’s New Relativistic Dynamics”, Nature 123 (1929) 349.
4) O. Klein und Y. Nishina, “Über die Streuung von Strahlung durch freie Electronen nach der neuen relativistischen Quantendynamik von Dirac”, ZS. f. Phys. 52 (1929) 853-868.
5) Y. Nishina, “Die Polarisation der Comptonstreuung nach der Diracschen Theorie des Elektrons”, ZS. f. Phys. 52 (1929) 869-877.
6) Y. Nishina and S. Tomonaga, “On the Creation of Positive and Negative Electrons”, Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 15 (1933) 248-249.
7) Y. Nishina and S. Tomonaga, “On the Creation of Positive and Negative Electrons”, Jap. J. Phys. 2 (1934) 21.
8) Y. Nishina and S. Tomonaga, “On THE NEGATIVE-ENERGY ELECTRONS”, Jap. J. Phys. 9 (1934) 35-40.
9) Y. Nishina, S. Tomonaga and S. Sakata, “On THE PHOTO-ELECTRIC CREATION OF POSITIVE AND NEGATIVE ELECTRONS”, Sci. Pap. I.P.C.R. 25 (1934) 1-5.
10) Y. Nishina, S. Tomonaga and H. Tamaki, “ON THE ANNIHILATION OF ELECTRONS AND POSITRONS”, Sci. Pap. I.P.C.R. 24 (1934) 7-12.
11) Y. Nishina, S. Tomonaga and M. Kobayasi, “ON THE CREATION OF POSITIVE AND NEGATIVE ELECTRONS BY HEAVY CHARGED PARTICLES”, Sci. Pap. I.P.C.R. 27 (1935) 137-178.
12) Y. Nishina, S. Tomonaga and H. Tamaki, “A Note on the Interaction of the Neutron and the Proton”, Sci. Pap. I.P.C.R. 30 (1936) 61-69.
宇宙線研究
1935年に湯川博士が、核子間の相互作用を媒介する未知の中間子(パイ中間子)の存在を予言する論文を発表します。仁科博士は世界に先駆けてその存在を宇宙線中に検証するため、世界最大のウィルソン霧箱を建造しました。そして横須賀の海軍工廠にあった潜水艦搭載電池の充電器を借りてこれを稼働し、欧米の1、2のグループとほぼ同時期にパイ中間子が崩壊してできるミューオンの存在を確証し、 米国のフィジカル・レヴュー誌に論文を発表しました。しかも、仁科博士たちが測定したミューオンの質量が世界で最も精度が高かったことは特筆に値します。宇宙線の中に未知の素粒子とその性質を調べるこの研究手法は、小柴博士のカミオカンデ、梶田博士のスーパーカミオカンデでのノーベル物理学賞に輝く発見に繋がっていきました。また、宇宙線の相互作用を調べるため、開通したばかりの清水トンネル内で世界最深度での宇宙線観測を行いました。
世界最大のウィルソン霧箱
清水トンネル内での宇宙線観測
ミュオンの発見写真
は、仁科博士の直弟子、竹内柾博士著の “COSMIC RAY STUDY IN NISHINA LABORATORY” (Y.Sekido and H.Elliot (eds.), Early History of Cosmic Ray Studies, 137-143 (1986))
です。
1) Y. Nishina and C. Ishii, “A Cosmic Ray Burst at a Depth equivalent to 800 m. of Water”, Nature 138 (1936) 721-722.
2) Y. Nishina, M. Takeuchi and T. Ichimiya, “On the Nature of Cosmic-Ray Particles”, Phys. Rev. 52 (1937) 1198-1199.
3) 仁科芳雄, 「新粒子の発見」, 「科学」7 (1937) 408-411.
4) Y. Nishina, C. Ishii, Y. Asano and Y. Sekido, “Measurements of Cosmic Rays during the Solar Eclipse of June 19, 1936”, Jap. J. Astr. Geophys. 14 (1937) 265-275.
5) Y. Nishina, M. Takeuchi and T. Ichimiya, “On the Mass of the Mesotron”, Phys. Rev. 55 (1939) 585-586.
6) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and H. Arakawa, “Cosmic Ray Intensities and Air Masses”, Phys. Rev. 57 (1940) 663.
7) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and H. Arakawa, “Cosmic Ray Intensities and Cyclones”, Nature 145 (1940) 703-705.
8) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and H. Arakawa, “Cosmic-Ray Intensities in Relation to Cyclones and Anticyclones”, Nature 146 (1940) 95.
9) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and H. Arakawa, “Air Masses Effect on Cosmic-Ray Intensity”, Phys. Rev. 57 (1940) 1050-1051.
10) 仁科芳雄、荒川秀俊、関戸弥太郎、島村福太郎, 「宇宙線と気団(新気象要素としての宇宙線(I), 気象集誌 J. Meteor. Soc. Jap. 18 (1940) 160-161.
11) 仁科芳雄、荒川秀俊、関戸弥太郎、島村福太郎, 「宇宙線と気団(新気象要素としての宇宙線(II), 気象集誌 J. Meteor. Soc. Jap. 18 (1940) 161-164.
12) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and T. Masuda, “Cosmic Rays at a Depth Equivalent to 1400 meters of Water”, Phys. Rev. 59 (1941) 401.
13) Y. Nishina, Y. Sekido, H. Simamura and H. Arakawa, “Cosmic Ray Intensities and Typhoons”, Phys. Rev. 59 (1941) 679.
14) Y. Nishina, K. Birus, Y. Sekido, and Y. Miyazaki, “Ein Umwandlungseffelct neutraler Mesotronen”, Sci. Pap. I.P.C.R. 38 (1941) 353-358.
15) Y. Nishina and K. Birus, “Neutrale Mesotronen in der Hohenstrahlung”, Sci. Pap. I.P.C.R. 38 (1941) 369-370.
元素変換研究
下の写真は、1954年に朝日新聞社が撮影した旧理化学研究所の航空写真です。仁科研究室は3号館と右上の23号館、37号館に居室がありました。 仁科博士は、1930年代初頭に始まったばかりの加速器による元素変換研究を世界をリードして推進するため、まず、コッククロフト・ウォルトン静電加速器を37号館内に建設、続いて発明者アーネスト・ローレンスのサイクロトロンから遅れること3年の1937年に小サイクロトロン(写真内上)での元素変換研究を開始しました。世界で2番目でした。
旧理化学研究所の航空写真(朝日新聞社撮影) 小サイクロトロン(上) 大サイクロトロン(下)
仁科研究室は ➂:3号館 ㉓:23号館 ㊲:37号館(仁科記念室)にあった。
特筆すべき成果は、サイクロトロンによって発生した速い中性子による「新同位元素ウラン237の発見」と「ウラン235の対称核分裂の発見」で、これらは、英国のネイチャー誌と米国のフィジカル・レヴュー誌に発表されました。前者のウラン237は負電子放出のベータ崩壊をして93番新元素となることが確認され論文に発表されました。こうして仁科博士の放射化学グループは世界初の超ウラン元素の発見者となる筈でしたが、不運にも、半減期が非常に長かったため、その崩壊系列の中に化学分離できず、新元素発見の栄誉にまでは浴せませんでした。で一連の論文をご覧いただけます。しかしこの仁科先生の新元素発見の夢は、60年有余を経て理研仁科センターの森田浩介博士(2005年仁科記念賞受賞)らの113番新元素ニホニウムの発見で叶うことになります。欧米の核物理学者を驚嘆させたのは後者です。ウラン235の核分裂は遅い中性子の吸収でしか起らないという常識を覆したからです。太平洋戦争勃発直前に仁科博士の命を受けて渡米した矢崎為一博士は、これを米国の学会で発表しました。その時の錚々たる核物理学者の絶賛の様子が、矢崎博士が仁科博士に送った手紙に活写されています。
仁科博士はこれらの研究をさらに推進するため、ローレンスの助けを借りて、より高エネルギーでよりビーム強度の大きい大サイクロトロン(写真内下)を敗戦間際の1943年の暮れに始動しますが、敗戦後1945年11月に突如占領軍によって切り刻まれて東京湾に投棄されてしまいました。その後、株式会社から特殊法人になった理化学研究所は埼玉県和光市に移転し、1967年、仁科博士の大サイクロトロンをスケールアップして再建します。そしてさらにこれをスケールアップして、2007年、世界最高性能の超伝導サイクロトロンが始動しました。
は、仁科博士の直弟子たち新間啓三博士ほか著の “「60吋(大型)サイクロトロン」建設報告” (新間啓三、山崎文男、杉本朝雄、田島英三、科学研究所報告 第二十七號 第三號 昭和二十六年六月)
です。
仁科博士の直弟子で元常務理事の中根良平博士へのインタビュー記事「歴史秘話サイクロトロンと原爆研究」を<理研ニュース>でご覧いただけます。
1) Y. Nishina, R. Sagane, M.Takeuchi and R. Tomita, “ENERGY SPECTRUM OF POSITRONS FROM RADIO-PHOSPHORUS 15P30 (ACTIVATED ALUMINIUM)”, Sci. Pap. I.P.C.R. 24 (1934) 1-7.
2) 仁科芳雄、嵯峨根遼吉、竹内柾、富田良次, 「アルミニウムより得たる15P30の人工放射能に於ける陽電子のエネルギースペクトル」,日本学術協会報告10巻4号(1935) 907-908.
3) 仁科芳雄、嵯峨根遼吉、新聞啓三、皆川里, 「原子核の人工変換」, 日本学術協会報告10巻4号(1935) 909-910.
4) Y. Nishina, T. Yasaki and S. Watanabe, “The Installntion of a Cyclotron”, Sci. Pap. I.P.C.R . 34 (1938) 1658-1668.
5) Y. Nishina, and H. Nakayama, “On the Absorption and Translocation of Sodium in the Plant”, Sci. Pap. I.P.C.R . 34 (1938) 1635-1642.
6) Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura and M. Ikawa, “Artificial-Production of Uranium Y from Thorium”, Nature 142 (1938) 874.
7) T. Yasaki, and S. Watanabe, “Deuteron-induced Radioactivity in Oxygen”, Nature 141 (1938) 787-789.
8) A. Sugimoto, “Energy Levels of the 24Mg Nucleus”, Nature 142 (1938) 754-755.
9) M. Nakaidzumi and K. Murati, “Effects of Be-D Radiations upon Vicia Faba”, Nature 142 (1938) 534-535.
10) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Fission of Thorium by Neutrons”, Nature 144 (1939) 547-548L.
11) Y. Nishina, and D. Moriwaki. “Sex-linked Mutation of Drosophila melanogaster Indeuced by Neutron Radiations from a Cyclotron”, Sci. Pap. I.P.C.R . 36 (1939) 419-425.
12) 仁科芳雄、篠遠喜人, 「植物に及ぼす中性子の影響 I. そばとあさとに於ける異常」, 理研彙報 18 (1939) 721-734.
13) 仁科芳雄、中村浩、中山弘美, 「光合成に及ぼす中性子の影響」, 理研彙報 19 (1940) 1343-1347.
14) 仁科芳雄、中山弘美,「人工放射性燐による水草に於ける塩類の吸収及び移動」, 応用物理 9 (1940) 1-4.
15) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Fission Product of Uranium produced by Fast Neutrons”, Nature 146 (1940) 24-25.
16) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Artificial Radioactivity Induced in Zr and Mo”, Phys. Rev. 57 (1940) 1179-1180.
17) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Induced β-activity of Uranium by Fast Neutrons”, Phys. Rev. 57 (1940) 1182.
18) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Fission Products of Uranium by Fast Neutrons”, Phys. Rev. 58 (1940) 660-661.
19)Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Fission Products of Uranium by Fast Neutrons”, Phys. Rev. 59 (1941) 323-324.
20) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Fission Products of Uranium by Fast Neutrons”, Phys. Rev. 59 (1941) 677.
21) Y. Nishina, and D. Moriwaki, “Sex-linked Mutation of Drosophila melanogaster Indeuced by Neutron Radiations from a Cyclotron. II.”, Sci. Pap. I.P.C.R . 38 (1941) 371-376.
22) Y. Nishina, T. Iimori. H. Kubo and H. Nakayama, “The Exchange Reaction between Gaseous and Combined Nitrogen”, J. of Chem. Phys. 9 (1941) 571-572.
23) Y. Nishina, S. Endo und H. Nakayama, “Versuche über die bakterielle Synthese einiger Dicarbonsäuren mit Hilfe der radioaktiven Kohlensäunren”, Sci. Pap. I.P.C.R . 38 (1941) 341-346.
24) 仁科芳雄、鶴見三三、村地孝一、渡邊進三、阿部春男, 「中性子のインフルエンザ・ヴィ―ルスに及ぼす影響」, 理研彙報 20 (1941) 480-488.
25) 仁科芳雄、和田文吾, 「生体分裂細胞に及ぼす中性子の影響(豫報)」, 理研彙報 21 (1941) 1264-1268.
26) Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura and M. Ikawa, “Einige Spaltprodukte aus der Bestrahlung des Urans mit schnellen Neutronen”, ZS. f. Phys. 119 (1942) 195-200.
広島・長崎原爆被害調査

章末に掲げた遺稿集「原子力と私」の「原子爆弾」によると、1945年8月6日に広島に原爆が投下された2日後、仁科博士は日本帝国陸軍の要請で、投下された爆弾が原爆かどうかを検証するため広島に入ります。放射能の生物への影響を熟知していた博士にとっては命を賭した調査でした。写真は、その時博士が携行したA5判のノートです。これは今では、「仁科ノートI」「仁科ノートII」
(コピー)
(原本とコピー:【パスワードはお問合せ下さい】)と通称されています。記述は、8月9日から始まり、投下された爆弾の威力が物理的、生物学的に分析されています。8月10日の調査隊の会議で、博士は「爆薬にあらず(中略)原子弾又は同程度のもの」と結論(判決)しました。そしてこの判決は即座に大本営に報告されました。8月15日、日本は無条件降伏しました。これには仁科博士の結論が決定的な影響を与えました。博士は、広島の後、続けて長崎の現地調査も行い、回顧録 (「原子力と私」の「原子力の管理」)で「まさに生き地獄であった」と記しています。博士が「原子力の平和利用」を訴える一方で「核の国際管理」を強く世に訴えたのは、原爆被害の惨状を目の当たりにした原子物理学者としての責任感によるものだったのでしょう。
史料1:当時の国策通信社 同盟通信(共同通信、時事通信の前身)が、川越市にあった受信所で傍受した「原爆投下」についての「トルーマン大統領声明」「アトリー首相声明」等を翻訳して大本営と仁科博士に届けた「敵性情報」。
史料2:陸軍の軍用機で広島に向う前日の夜、門弟の玉木英彦博士に宛てた「置き手紙」 この情報は同じく門弟の武見太郎元日本医師会長(仁科博士の主治医)の義祖父である牧野伸顕伯爵を通じて即座に昭和天皇に上奏された。仁科記念財団編纂「原子爆弾」宣伝広告の編集者の言葉のうち、武見太郎を参照されたい。
史料3:「黒田文書」
仁科博士は旧陸軍航空技術研究所からの委託を受け、原爆開発研究「ニ号研究」を実施。東京第二造兵廠(在板橋)の責任者がその進展状況 (熱拡散法によるウラン235の濃縮)を仁科博士から聞き取り記録したもので、4部に分かれており全部で23枚ある。終戦前日(昭和20年8月14日)
理研の研究者の一人が「焼却してしまうのは惜しい」と当時東大理学部助教授で理研の嘱託を兼ねていた黒田和夫・米国アーカンソー大名誉教授(昭和24年渡米、平成13年4月死去)に託したもの。平成14年に黒田氏の遺族(妻ルイーズさん)から理研記念史料室が遺贈として受領した。
参考1:江沢洋「仁科芳雄博士と日本の核開発の端緒」
第2回仁科記念シンポジウム「アイソトープ科学の最前線」-原子力と仁科博士-の講演録収録。仁科博士の「二号研究」でのウラン235濃縮の実態が「黒田文書」を引用して詳しく語られている。
参考2:中根良平「仁科芳雄博士と我が国初のサイクロトロン」
第1回仁科記念シンポジウム「アイソトープ科学の最前線」-核物理から核医学までーの講演録収録。小サイクロトロンを用いて行われた速い中性子による「ウラン235の対称核分裂の発見」と仁科博士の二号研究の実態が詳しく語られている。


参考3:

参考4:


日本アイソトープ協会と科研製薬株式会社の設立
わが国で最初に、ラジオアイソトープを加速器で 製造しこれを最先端の生物・化学・医学研究に利用 したのは仁科博士です。仁科研究室で研鑽を積んだ 俊英たちが戦後日本のラジオアイソトープ科学を発展させました。その中には後に日本医師会の会長と なった武見太郎博士もいます。
戦後、大小の2台のサイクロトロンを失ってしまった仁科博士はGHQ との粘り強い交渉の末、アメリカから原子炉製のラジオアイソトープを輸入することに成功します。この写真は、1950年に輸入されたラジオアイソトープを取り出して感無量のスナップです。このラジオアイソトープ輸入供給事業は、博士の没後1955 年より日本アイソトープ協会(初代会長:茅誠司)に受け継がれ日本の医療に大きく貢献しています。協会は、今も旧23号館に本部があります。
財団法人理化学研究所は財閥と見做されて GHQ によって解体されることになりますが、仁科博士の英断 で株式会社科学研究所 ( は「科研の沿革」) に改組し1948年民間会社として再出発することになります。この会社は、現在の科研 製薬株式会社の前身です。仁科博士は新会社の財政基盤を固めるため創薬事業に乗り出します。博士は本業の真空技術を活用して真空培養器(左)を開発し、ペニシリン、ストレプトマイシンの商品化で利益を上げ て事業家としての才能を発揮しました。
アメリカから輸入した原子炉製のラジオアイソトープ
ペニシリン製造用の真空培養器
日本の科学研究体制の刷新
仁科博士は、科学研究所の経営に腐心するかたわらで、日本の科学体制の刷新にも力を尽くしました。それが、日本学術会議の創設です。博士は志を同じくする日本の科学者に加え、親交を深くしたGHQ 経済科学局科学技術部長ハリー・ケリーらとも議論を重ねて、1949年、全国の科学者の選挙による日本学術会議を創設しました。
写真(下)は、右から仁科芳雄初代自然科学部門副会長、ケリー、亀山直人初代会長、我妻栄初代人文・社会科学部門副会長、兼重寛九郎 (後の会長) が一同に会しているスナップです。(ノースカロライナ州立大学図書館 所蔵)
仁科博士は、同時期に広島の原爆調査を行った荒勝文策京大教授とともに「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状に鑑み、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する」という声明を起草し、満場一致で承認されました。この声明の自筆の原稿 が残されています。文頭の「平和を熱愛する」は亀山会長が付け加えた言葉です。
また、最晩年には、日本の科学界の代表として国際学術会議やユネスコ会議に出席して平和を求める国際社会への復帰に尽力しました。


仁科芳雄博士の墓
還暦を迎えてまもなく鬼籍に入られた仁科博士のお墓は、東京都府中市の多磨霊園にあります。墓標の揮毫は、親交の深かった当時の首相吉田茂です。そして左傍らには、ケリー博士が分骨されて眠っています。揮毫は、茅誠司日本アイソトープ協会初代会長、元東京大学総長。また、右傍らは、朝永振一郎博士のお墓です。揮毫は、武見太郎元日本医師会長。墓標には「師とともに眠る」とあります。敗戦日本の科学技術の復興に尽瘁した仁科博士との厚い同志愛、子弟愛がここに眠っています。
仁科芳雄博士の墓
墓参り(左から)仁科浩二郎博士、故仁科雄一郎博士、鈴木増雄前顧問、小林誠前理事長、矢野安重常務理事
「偉業」の詳細は、故江沢洋評議員の「解説」(仁科芳雄往復書簡集からの抜粋)をご参照ください。
目次
1.仁科芳雄デジタル記念館へようこそ
2.旧「仁科記念室」
3.仁科芳雄博士略歴
4.仁科芳雄博士の偉業
5.著作と書簡