仁科芳雄博士について

仁科芳雄博士は1890年12月6日、岡山県浅口郡里庄村で土地の素封家であった仁科家の四男として誕生した。幼少の頃から秀才の誉れが高く、中学を卒業後岡山の第六高等学校へ入学し、さらに東京大学工科の電気工学科へ入学した。1918年博士は電気工学科を主席で卒業、直ちに大学院へ進んだが、同時に財団法人理化学研究所に研究生として入所し、1922年研究員に昇格するとともに海外留学を命じられて渡欧した。

仁科博士の最初の留学先は英国 Cambridge 大学の Cavendish 研究所であった。ここには当時、後に中性子を発見する Chadwick やロシアから Kapitsa が来ており、Rutherford 教授と共に博士に大きな影響を与えたことは想像にかたくない。Cavendish 研究所には1922年8月まで滞在し、その年の11月にはドイツの Gottingen 大学に3月まで留学して量子力学の Born や数学の Hilbert 教授の講義を聴講した。しかしながら博士がもっとも大きな影響を受けたのは、1923年4月から1928年9月まで滞在したデンマークの Bohr 教授である。

この期間はちょうど量子力学に関する大きな発展があった時期で、世界各地から Cramers, Heisenberg, Darwin, Dirac, Fowler, Gamov, Gousmidt, Jordan, Klein, Pauli 等の俊秀が集まり、理論物理学の活気ある討論が行われる一方、その理論を裏付けるための様々な実験が行われていた。 博士はここではまずランタノイド元素のL吸収スペクトルとその原子構造との関係を調べた。これは当時発表されたボーア教授の原子構造理論をX線吸収スペクトルの測定によって裏づけようというものであった。コペンハーゲン時代の博士は、実験方面ではX線の化学への応用に力を注いだ。この頃は化学分析の手法が可視分光法からX線分光法へ移行しつつある時期に当たり、博士はこの方法を用いた定量分析法の研究を行った。

1927年の8月から10月にかけてはパリに滞在し、続いて翌年2月まで、当時 Pauli が赴任していたハンブルグ大学に滞在、後に米国へ移った Rabi と共に共同研究をおこなった。1928年に再びコペンハーゲンへ戻り、Klein と共に有名な Klein-Nishina の公式を導くという大きな成果を挙げた。博士はこの後間もなくコペンハーゲンを去り、米国の大学を訪歴後日本へ帰国した。

帰国後の博士は、理化学研究所において、日本における新しい物理学の拠点の確立に努力した。重要なことは誕生したばかりの量子力学の普及につとめたことで、特に京都大学での特別講義では湯川秀樹、朝永振一郎の両氏に大きな感銘を与え、日本における理論物理学の発展に大きな寄与をしたことである。翌年には量子力学の創始者である Heisenberg および Dirac が揃って来日した。その翌年博士は理学博士の学位を取得し、理化学研究所は最も若い主任研究員として博士に新しい研究室を主宰させることになった。

創立直後の仁科研究室ではウイルソン霧箱、ガイガーミュラー計数管、高電圧イオン加速装置などの製作が開始された。1933年には朝永振一郎、坂田昌一と共に Dirac の理論に基づいてガンマ線による電子対生成の計算を行った。これはその前年陽電子が発見されて Dirac の理論による電子の負エネルギー状態の解釈がついたので、外国でも Bethe、 Heitler が独立に計算を進めていた。翌年にはこの逆過程が計算されており、いわゆる輻射理論計算では欧米と常に競合していた。

1933年に Curie 夫妻によって人工放射能が発見されると、すでに製作されていたウイルソン霧箱を用いて放射性燐から放出される陽電子のエネルギー分布が測定された。中性子や人工放射能の発見など初期の原子核物理学においては小規模な実験装置で充分であったが、この分野の飛躍的な進歩にはサイクロトロンなどの大型装置が必要であることを博士は早い時期から提唱していた。1935年には理化学研究所に原子核研究室が設けられ、コックロフトとサイクロトロン装置とが製作されることになった。1937年には重量23トンの装置を完成し、核物理学、放射性生物学、放射性同位元素をトレーサーとする応用研究などが開始された。一方サイクロトロンの建設は小サイクロトロンが順調に稼働し始め、発生させた中性子をウランに照射してその核反応を研究した。

同じ頃、仁科研究室では宇宙線関係で二つの大きな仕事をしていた。一つは宇宙線強度の高度依存性の研究で、1935年にコンプトン型宇宙線計を用い、箱根および富士山で高度による強度の増加を観測した。翌年には皆既日食を利用して宇宙線の成分には太陽からの寄与がないことを証明し、また清水トンネルの地下での観測行い、1937年には Bohr 教授の招聘を実現している。この頃 Anderson ら仏、米の3グループは、宇宙線の硬成分中 に電子より重く、陽子より軽い新しい粒子が存在することを報告していたが、その質量は知られていなかった。博士のグループは当時世界最大、最高性能の磁界分布を持つ霧箱の中で新粒子の飛跡をとらえ、その質量を電子の(180±20)倍と決定し, Phys. Rev. 誌に発表した。この価は、当時最も精度の高いものであり、現在知られているミューオンの質量と一致している。

大サイクロトロンが完成したころ、第2次大戦が終局に近づき、研究も当然その影響を免れなかった。 1945年夏に広島、長崎に投下された爆弾は、博士の直感で原子爆弾と判断し、現地の調査に出かけたが、帰京早々に終戦を迎えることになった。しかしこの直後、駐留軍の誤解によって大小のサイクロトロンが東京湾に投棄されたことは、博士にとっては耐えがたい出来事であり、一時期体調を崩された。

戦後、理化学研究所は大きな転機を迎えた。1946年博士は戦後最初の文化勲章が授与されたが、すぐに財閥解体によって研究所の改組を命じられ、博士は研究所の代表として終始交渉にあたることになる。まづ旧理研の第二会社としての株式会社科学研究所を設立し,1948年社長に就任した。この時期学士院会員、日本学術会議副会長に就任したが肝臓ガンに侵され、1951年内外の学界からの痛惜のうちに永眠された。